第1回東京モーターショー(10回目までの正式名称は全日本自動車ショウ)は、1954年4月20日~29日に開催された。会場は日比谷公園内広場。屋外で行われたということだ。
私は初日に行った。長い列に並んで開門を待った。調べてみたら、4月20日は火曜日。だから、学校はサボったことになる。10才年上の兄に連れて行ってもらったのだが、兄も仕事を休んだはずである。私も、兄も、日本初のモーターショーには、それほど強く惹きつけられていたことになる。とにかく、少しでも早く、誰よりも早く見たかったのだろう。
記録によると、出品車台数は267台。内、乗用車は17台とある。トラックやバスや特装車がほとんどだったのだが、カラフルな会場で、とにもかくにも多くのクルマに囲まれているだけで、私はワクワクしていたはずだ。
日比谷公園に足を運んだ多くの人たちは、「遠い存在だった」クルマが、少しは身近な存在になったように感じたのではないか。
私は、いちばん美しかったヒルマン・ミンクスを「いつか手に入れたい!」と思った。
すぐには買えなくても「いつかは!」との思いを抱いた人は少なくなかっただろう。強い思いは夢に近づくなによりの動機になる。
第1回東京モータショーが、日本のクルマ文化発展の大きな起点になったのは事実だ。
以来、東京モーターショーは回を重ね、日本自動車産業の発展、モータリゼーションの発展を強く後押ししてきた。
日比谷公園から、後楽園競輪場(第5回のみ)を経て、東京国際見本市会場(晴海)に場を移した1959年から、モーターショーとしての形も整ってきた。そして、1964年の東京オリンピックを期に道路環境の整備が加速し始め、同年の第2回日本GPは、日本車対外国車対決の構図の下、クルマファンに強烈な刺激をもたらした。私の遊び仲間からも、浮谷東次郎、川合稔を始め、日本を代表するドライバーが続々生まれた。トヨタのエースになった川合 稔は、当時の超売れっ子モデル、小川ローザと結婚。大きなニュースになった。
そんな状況をも背景に、1960年代後半からの東京モーターショーも「劇的」といえるほどの変化、発展を遂げ、世界からも注目される地位へと上っていった。
カローラ、サニー、コロナ、ブルーバード、ホンダN360、スバル360、ホンダS600 /S800、スカイラインGT、トヨタ2000GT…。軽乗用車から大衆車、中大型車から高級スポーツカーまで、幅広いカテゴリーに魅力的なクルマが誕生した。もはや自動車後進国ではなく、自動車先進国の入口に近づいていた。
東京モーターショーも、夢を見にゆくだけの場ではなく、目の前に並ぶ現実的選択肢の品定めをする場所にもなっていったのだ。
年々華やかさをも増していった東京モーターショーだが、強く記憶に残っているのが1967年のトヨタ・ブース。ゴールドのボディカラーを纏ったトヨタ2000GTの脇に立ったのは、当時、世界に君臨したスーパーモデルのツイッギー。爆発的なミニスカート・ブームを世界に広めたモデルが、日本車に寄り添う…急速に進化し続ける日本のクルマの地位を象徴する出来事だった。トヨタ2000GTが、映画「007」で、ジェームス・ボンドと共演したことも同様の意味がある。
1970年からは輸入車も加わった。欧米人気ブランド車の多くを直接目の前にすることで、夢のステップに現実味が加わった。そして’80年代に入ると、メルセデスや BMWに乗るという夢が、現実的視野に入り始めたのだ。
クルマはその国の時代と文化を映す鏡と言われるが、東京モーターショーを振り返ってみると、改めて「その通りだな!」と思う。
それだけにショーは大盛況で、10日間で54万7,000人の来場者が詰めかけた。ただし自動車で来場した人はほとんどなく、設置された駐車場には、自転車がズラリと並んだという。
岡崎宏司
「東京モーターショー2015」の続きは本誌で
おもてなしを具現化した国際ショーをめざす
日本自動車工業会 モーターショー室長 石田豊一氏インタビュー
まるも亜希子
東京モーターショーは日本のクルマ文化と共にあった
岡崎宏司