ジャンルを飛び越えろ シンクロ率を上げる 〜epilogue〜

 ジャンルは人間が創造したものを区分するために使われる言葉である。本来ジャンルとは芸術作品や文学作品をひとつの側面から客観的に分類することをいう。

 明確な基準を持つカテゴリーとは違い、視点や時代によってジャンルは変化するのだ。しかし商業主義の中でジャンルとカテゴリーは、基本的に同義語とされ、消費側のマインドをコントロールするために利用されることがある。誰かに創られたジャンルに捉われず、
自分の感性と価値観で物事を判断することが必要な時代がきている。

シンクロ率を上げる 〜epilogue〜

 昨年の秋に50歳を迎えたこともあり、さすがにいつまでも若いつもりではいられなくなってきた。筋力や持久力の衰えといった体力的な問題を考えてもオートバイを自由に操れる時間が残り少なくなってきたことを実感している。原付に乗り始めたころを含めると16歳からオートバイに乗り続けてきたので、人生の大半の時間をオートバイと過ごしてきたことになる。ここまで飽きずにオートバイに乗り続けてこられたひとつの理由としては、世代的な部分が大きい。「オートバイはカッコイイ」という思春期の刷り込みから抜け出せずにいるのだ。しかし、ただカッコイイというだけでここまでは乗り続けられなかったはず。オートバイという遊びは、カッコ悪いことも多く起きるし、長く乗り続けていると身体的な辛さだけではなく、精神的な面で苦しむことも多いからだ。ではなぜ、30年以上もオートバイに乗り続けてこられたのか。自分の場合それは、「オートバイと同化」することが目的だったからのように思う。

 「道具の身体化」という言葉がある。道具を使うときに人間は道具を自分の身体の一部として認識するという学術的な見解のことだ。例えば、箸で物を掴むといった行動も箸先が指と同化しているような感覚が必要になる。また、自販機の下に転がってしまった硬貨を棒で探すといったような視覚に頼ることができない場面でも、手に持った棒(道具)が対象物に触れる感触を頼りに硬貨をたぐり寄せることができる。これは脳内の身体表現(もしくは身体図式)が道具まで延長することで可能になるらしい。多分この「道具の身体化」によって人間はクルマを運転できるのだろう。人間の何十倍も体積があるトラックやバスのような大型車であっても、身体表現の感覚を鍛えることで、それらの運転を可能にしていると思われる。しかしオートバイの場合は「道具の身体化」だけではなく、真逆の「身体の道具化」が必要になる。オートバイを運転する際、人間はオートバイの一部になることが求められるからだ。分かりきったことだが、オートバイは人間が股がってバランスを取らなければ自立することさえできない。曲がるときは当然として、加速時や減速時においても人間がオートバイの一部として働くことで走行が成立している。人間が加わって、はじめて完成する乗り物なのだ。もちろん他の乗り物でも同じような部分はあるが、オートバイは人間が補わなければならない点が格段に多い。この特徴からオートバイは「身体の道具化」が必須だといえるだろう。

 そして「道具の身体化」と「身体の道具化」が融合すると人間が「オートバイと同化」することになる。その同化した状態から生まれる特殊な興奮こそオートバイが人を惹きつける最大の要因だ。それは、人間が潜在的に持っている欲求を刺激するようなもので、自分の身体が進化したような錯覚に陥る。ひとによって差はあるが、高揚感や解放感、または攻撃性など、良し悪しは別としてポジティブな気分になれるのだ。このオートバイの麻薬的な要素が長年オートバイに乗り続けてきた正体だったのである。

 実は、この仕組みに気付いたのは40代の後半になってからだ。それまでは、なぜ自分がオートバイに乗るのかという疑問はなかったので、面白そうなことは何でも手を出した。北海道キャンプツーリングやオフロード、サンデーレースに本格的なカスタム車両製作までオートバイに関わることを節操なくやった。ときにそれは、流行に踊らされたり、優劣を比較するための行為だったりもした。しかしオートバイに乗る目的を自分の中に持ってからは、求めるシチュエーション以外でオートバイを必要としなくなっている。あとどのくらいオートバイに乗り続けるかは分からないが、全てを納得できる時間にしていきたい。

文・神尾 成 Sei Kamio/写真・長谷川徹

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